〜大工さんの石像のある会社・創業者山中三郎の物語〜
昭和36年、創業者山中三郎が26歳の時に地元である茨城県古河市に山中建設工業株式会社を設立。
7人兄弟の三男として大工の家に生まれ、戦時中食べるものにも苦労する時代。母親は毎日精一杯の食事をつくってくれたが、育ち盛りの子供たちが7人、母親の分はとても少なく、残っていないこともあった。それを見ていた三郎は、子供ながらに母を想い「もうお腹いっぱい」と言って、いつも茶碗に少しのご飯を残していた。大人になってからも、ご飯を必ず一箸ほど残していたのは、当時の想いをずっと忘れずにいたからだ。
14歳の時に大きな農家に百姓奉公へ。奉公に出された日は、真冬の風が冷たい朝だった。母親に連れられて、5キロ先の農家まで歩いた。それから2年の間、親元を離れ本当に辛抱して、寂しくも大変な思いをしながら、泣き言ひとつ言わず勤め上げた。
百姓奉公を終えてからは、家業の大工に。ふたりの兄とともに一緒に大工になった。皆で毎日必死に働いても、なかなか暮らしは楽にならず、貧しかった。三郎は、この暮らしを少しでも楽に、親を助けたいと願い、まだ当時地元にはいなかった建築士を目指そうと考えた。
創業したばかりの頃は、時代はまさに、高度経済成長期を迎え、茨城県古河市でも住宅団地や工業団地を造り始めてきた頃である。昭和36年、当時は地元の旧総和町には建設会社はわずか3社。建築士のいる建設会社は三郎の会社だけだった。あちこちから仕事が舞い込み、毎日寝る間もなく仕事に明け暮れていた。しかし一銭もない中での創業、その頃は毎朝暗いうちに起きて三輪車のトラックで古河の隣りの川辺村(現在の北川辺町)まで壁土を取りに行っていた。スコップを使って、手作業で。壁土トラック1台分で1,500円ほどになった。人夫の賃金が一日450円だった時代。必死に働き、元銭をつくり、誰よりも人のために働いた。
この画像のスコップは、三郎とともに壁土取りに行っていた職人さんが、当時使っていたスコップを50年以上も大事に持っていてくれて、ピカピカに磨いてずっと保管してくれていたものである。いま、当社の宝物として、事務所に大切に展示されている。それは、会社の魂そのものなのだ。
山中建設工業株式会社の社屋の玄関脇に、ひとつの石像が建っている。
「努力勝天才」と刻まれたその石像は、大工仕事をしながらも学び続けた努力の人、創業者山中三郎そのものに他ならない。
「大工さんの石像のある会社」として、おかげさまで今では地元の人々からも親しまれている。
「どんなに生きることが辛く哀しくても、泣き顔をやめて、力強く歩み続けて生き抜いていこう。朝は希望に起き、昼は努力に活き、夜は感謝に眠る」三郎氏が残した言葉は、二代目である現社長山中美登樹へと受け継がれている。山中建設工業株式会社の歴史は、古河市の町の歩みとも重なる。
創業者山中三郎が、昭和39年に施工した鉄筋コンクリート3階建てのビル。古河市で初めての鉄筋コンクリート造だった「古河第一ビル」は、ゆげ洋品店さんをはじめ、当時から続く老舗店舗が今も並ぶ。
呉服の若野屋さん、本のます善さん、秋山おもちゃ屋さんなど、古河駅西口を中心に、町の新しい建物が次々に誕生し、賑わいを見せていった。古河駅の東口方面では、三杉町や緑町の住宅団地も数多く手掛けた。古河に人々が行き交う場を生み出してきたのがまさに山中建設工業だった。
そして令和の時代、古河市はひと・物・コトが行き交う要としてますます重要な地域となった。山中建設工業株式会社では、一般住宅のみならず、幼稚園や学校をはじめとする子供達の安全な環境づくり、公共施設の建設、大きな集客力を誇る人気飲食店、スーパー、ホームセンターなど地元に愛される企業の店舗や社屋の建設、さらに全国を拠点とする有名企業の物流倉庫建設なども数多く施工させていただいている。ひとつひとつの施工に真心を込めて、大工としての一歩から始まった創業精神を忘れず、職人一丸となって歩んでいる。